龍馬は本当に剣の達人だったのか 〜坂本龍馬の真実〜

 

龍馬は本当に千葉道場で修行したのか

坂本龍馬に関する多くの史料が、嘉永6年(1853年)4月に、龍馬が江戸に上り、千葉道場に入門したとしています。

この点、神田お玉ヶ池にある千葉周作の玄武館とするものもあれば(『汗血千里駒』、『阪本龍馬』、『阪本龍馬』など)、桶町にあった弟の千葉定吉の道場とするものもあります(『維新土佐勤王史』、『雋傑坂本龍馬』、『坂本龍馬海援隊始末』など)。

もっとも、嘉永6年当時、桶町に千葉道場がなかったことが明らかとなっており、龍馬が通ったとすれば、新材木町の道場ということになるそうです。

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龍馬は、安政3年(1856年)、再び江戸に向かい、二度目の剣術修行に励んでいます。
大千葉の門人であった清河八郎が、安政4,5年ごろの在籍者309人の名前を記録した、『玄武館出席大概』という史料に、龍馬の名前が見られるのですが、もっとも、これすらも、出稽古に参加したという記録に過ぎず、必ずしも正規の門人の名簿というわけではなさそうです。
「有名な大道場のスポーツイベントに、ゲストとして参加した」、といったものであった可能性はかなり高そうです。

なんだかんだで、もろもろの情況証拠から、龍馬が『小千葉』と呼ばれた定吉の道場に通ったことは確実視されていますが、それを裏付ける確固たる直接の史料はじつは今日に至るまで発見されていないのです。
結構びっくりでしょ。

佐久間象山

他方で、史料から明らかなのは、龍馬が松代藩士で洋楽家の佐久間象山道場に入門していたことです。

小説や映画の影響で、龍馬といえば「撃剣家」というイメージが強いのですが、実は龍馬が本当に学ぼうとしたのは、洋流の砲術だったのでした。

龍馬は剣の達人ではなかった

一般に坂本龍馬は、北辰一刀流免許皆伝、桶町千葉道場の塾頭という経歴でもって、幕末を代表する剣の実力者であったとするのが、最近の小説やTVドラマ、マンガでは一般的です。

しかし、本当に坂本龍馬は剣の達人だったのでしょうか?

そもそも、どこの道場で学んだのか、どの程度の腕前だったのか、いろんな点が曖昧な坂本龍馬ですが、それを北辰一刀流の達人としたのは、司馬遼太郎です。

ほどなく、北辰一刀流の最高位である大目録皆伝を得、桶町千葉の塾頭になった。年、二十三歳である。(竜馬がゆく)

 

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しかし、たとえば前述の清河八郎は、嘉永4年に千葉道場に入門し、一年後に初目録、9年後に中目録免許を取得しています。

清河八郎

この清河ですら、通常よりはるかに早い期間で免許まで取得したとされています。
龍馬が、二度目の江戸修行で大目録まで取得したというのは、あまりに非現実的な話となってしまうわけです。

また、「皆伝」とは、本来一子相伝で後継者に伝えられるものです。道場の後継者ではない龍馬に与えられることはありえません。

司馬遼太郎は、どうしても龍馬を幕末の剣豪にしたかったため、話を盛ってしまったのでしょう。

なお、安政5年(1858年)正月に、千葉定吉が龍馬に与えたとされる「北辰一刀流長刀兵法目録」という史料があります。
しかし、この史料は昭和38年(1963年)に、当時の高知県知事がシカゴ在住の高知出身者から買い取ったといういわくつきのものなのです。
この資料の真贋はともかく、仮に正しいものだとしても、そこに書かれている文面から、免許や目録といったものというよりもどちらかというと短期講習会の修了証書のようなものだということです。
しかも、目録の対象は長刀であって、太刀などではない点も気にかかります。

龍馬が北辰一刀流の達人であったというのは、どうも真実味がないということになりそうです。

幻の剣術大会

安政4年(1857年)10月3日に、鍛冶橋の土佐藩邸で、藩主山内豊信の御前にて剣術大会が行われたというエピソードがあります。
審判員は神道無念流の斎藤弥九郎、鏡新明智流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉栄次郎ら5人で、出場者には桂小五郎、上田馬之助、海保帆平ら当代一流の剣客が参加したとされています。龍馬も試合に出場しており、島田駒之助なる人物と対戦して勝利を収めています。

もっとも、この試合の勝敗表が残されていますが、異なる史料に記述がないことや江戸にいない人物が出場していることから、後世の創作であることが判明しています。

さらに、安政5年(1858年)10月、桃井春蔵の士学館で千葉家を招いた剣術大会が催されたとされています。
最強との呼び声が高い練兵館の木戸準一(桂小五郎)は、数番を制して向かうところ無敵の快進撃を続け、決勝戦にて龍馬と立ち合うことになりました。

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10本の勝負は互角で、11本目に木戸が得意の上段で打ち込んだところを、龍馬は諸手突きを決めて勝利したとされています。

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この話は武市半平太が小南五郎右衛門に宛てた手紙にあるのですが、当時桂小五郎は木戸準一を名乗っておらず、また、武市・龍馬は土佐に帰国していることから、偽書であることは疑いようがありません。

『竜馬がゆく』『お〜い!竜馬』を始め、多くの映画やマンガ、小説などでは、この2つの幻の剣術大会をごちゃまぜにして、龍馬の青春時代のハイライトとして必ず取り上げるのですが、上記の通り、いずれも事実とは認められていません。

 

というわけで、坂本龍馬は剣の達人であったというのは、どうやら小説やドラマの中だけの話ということで決着しそうです。
実際に、後に寺田屋や近江屋で襲撃された際の対応をみても、剣豪というイメージからは程遠いことは明らかでしょう。
幕末は剣豪たちが血飛沫を上げて斬り合った時代です。
みんなのヒーローである龍馬も剣豪であって欲しいという人々の願望が結集した結果なのかもしれません。

しかし、坂本龍馬という人物は、剣が強かったから歴史に名を残しているわけではありません。
英雄・坂本龍馬は剣の達人であろうとなかろうと、魅力的な偉人であったことには変わりはないと思っています。

 

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5 Responses

  1. 匿名 より:

    最近、龍馬が皆伝を受けていたことが判明したそうですよ

  2. ひろやん より:

    免許皆伝でもその上の奥義は取れなかったんでしょう。あくまでも道場内での話で、逆に免許皆伝の方が弱い場合があります。それで不意討ちでやられたのは数多にいます。

  3. 匿名 より:

    龍馬が弱かったことにしたい人は昔からいるが、そもそも龍馬が江戸に行ったのは、土佐藩から剣術を修めてくるように選抜されていることを無視していないか?
     家柄や実家の経済力が考慮された、という反論は、坂本家は郷士なので家柄は良くないし、経済力はまあ、わりと裕福ではあっても、藩の選抜に割り込ませるほどの富豪ってわけでもない。
     土佐藩が二回も江戸に剣術修行に出せる位には強かったと考えた方が自然じゃないか?

  4. 匿名 より:

    基本調子が良いだけのひとっぽいけどね。よく言われるのが免許皆伝もお金で買ったし剣の腕も低いから銃をもちあるいてたって説

  5. 匿名 より:

    黒船が来た時代だから海防のために
    砲術を習ったと考えた方が自然じゃないですか?

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