坂本龍馬の真実

 

日本史上最高の人物?

坂本龍馬といえば、日本国民にとって知らない者のいない英雄中の英雄です。
そして歴史上の人物の人気ランキングなどやっても1位になることもしばしばです。

幼少の頃は落ちこぼれだったのにもかかわらず、北辰一刀流の剣の達人となり、その後もなんの後ろ盾もない一介の脱藩浪人であるにもかかわらず、尊皇攘夷の志士や幕府の要人たちと自由に交流し、何にも縛られない独創的な発想に基づく薩長同盟や大政奉還の実現によって一気に回天させ、何事にもとらわれない性格は日本最初の新婚旅行にいったり、株式会社を作りあげたりする。。。

坂本龍馬2

こんな人物は確かに他に類を見ないのですから、それは人気が出て当たり前です。

しかし、こういった人物像というのは、小説や映画、TVドラマやマンガによる虚像によって創り出されている部分が大きいのです。

このように言うと、「司馬遼太郎の大傑作『竜馬がゆく』までは坂本龍馬はまったく知られていない存在だった」といったような言説をネットなどで目にする機会が多いため、「またその話か」となっていまいますが、そうではありません。
『竜馬がゆく』以前にも、何度か生じた坂本龍馬は国民的ブームによって、すでに知らない者はいないぐらいの有名人物だったのです。

坂本龍馬の知名度

そもそも龍馬は生前にはどのくらいの知名度があったのでしょうか。

文久年間の当時の知名度に関しては、杉浦梅潭の『浪士一件』という、当時の幕府が懐柔すべき有力浪士の名を記した文献があり、そこには改訂の度に「土州坂本龍馬」の名前があります。

また、土佐の『寺村左膳道成日記』には「勤王論を以御国出奔。薩長之間を奔走し、頗ル浪士輩之名望アリト云」と坂本に関する風聞が書きとめられています。寺村左膳は山内容堂に近い人物で、土佐の保守派も坂本の行動に関心があったことがわかります。

文久年間は幕末史の中盤といってよく、「坂龍飛騰」と言われるような活躍をまだ見せない文久年間でも、そこそこの知名度があったようです。

さらに、時代が下って、幕末後半の慶応年間においては、龍馬の政治活動がどんどん活発になっていったため、当然、薩長土の重臣の書簡や日記の中にたびたび名前が現れるようになっています。

この点からすると、一般民衆には知られていなかったが、政治に関わる要人たちの間での知名度はあったと言えるでしょう。
かといって、西郷隆盛や木戸孝允と比べると明らかに知名度は低かったと思われます。

そして生まれる龍馬伝説

龍馬の伝説が生まれるのは、実は明治に入ってからでした。
明治16年、坂崎紫蘭という小説家が土陽新聞にて『汗血千里駒』の連載を開始します。

汗血千里の駒
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』をはじめ、龍馬の物語の多くの原型となっている小説です。私達が知っている以下の様な龍馬像の多くが語られていますが、そのほとんどが創作です。

  • 母親が身ごもるときに龍が胎内に入る夢を見た
  • 14歳で寝小便
  • 姉の乙女はスーパーウーマンで龍馬を鍛えた
  • 千葉道場の娘佐那との淡い恋
  • 北辰一刀流の剣の達人
  • お龍が入浴中に襲撃され、裸でご注進した名場面

当時は自由民権運動が非常に盛り上がっているときでした。
征韓論以来、政府の要職は薩長門閥に牛耳られており、維新に尽力した中で土佐は冷遇されており、板垣退助を筆頭に打倒藩閥政府を掲げて運動を進めていた時代です。
土佐にも薩長に負けず劣らない偉大な人物がいたのだ、という土佐の復権を願うこころが、坂崎紫蘭を通じて、「坂本龍馬」という人物を生み出したといっていいのかもしれません。
龍馬の物語の中でよく語られる、上士と郷士の対立の結果生じた井口村事件では、上士という政治権力に立ち向かう龍馬が雄々しく描かれています。実際に井口村事件で活躍したのは大石弥太郎なのですが、龍馬がかわりに登場したことになっているのです。
また、実際には土佐における郷士は苛烈な差別を受けていなかったのですが、ここで権力と戦う龍馬が民権運動のシンボルとなったことは言うまでもありません。

帝国海軍の創設者=龍馬?

次に熱狂的な龍馬ブームを巻き起こしたのは、明治37年のことでした。

日露開戦前に恐露病に陥った昭憲皇太后が坂本龍馬の夢を見たという逸話が広まったのです。
昭憲皇太后の枕元に幽霊が現れ、そして「誓って皇国の御為に帝国海軍を護り奉る」と奏上し、日本海軍の勝利を約束したというものでした。
この話を聞いた皇后宮大夫・香川敬三が龍馬の写真を献上したところ、昭憲皇太后は「夢に現れたのは龍馬に間違いない」と驚かれたといいます。

昭憲皇太后

初出の時事新報の記事には「陛下には不思議の事に思召し、翌朝御側の者に『前夜の御物語(夢)あり、龍馬の名は兼ねてより記憶に存ずれども如何なる人物にや』との御尋ありければ」と書かれています。皇太后は坂本の詳細な人となりまで知らなかったが、名前は知っていたわけです。

ここで龍馬は死して護国の鬼となって現れたわけで、実際には薩摩出身者が牛耳り土佐など出る幕のない海軍の創設者のようなかたちで祭り上げられてしまいました。これも土佐閥による土佐復権のための芝居だった可能性が高いと言われています。

民主主義者龍馬?

さらには、大正年間において、尾佐竹猛ら憲政史観の歴史研究者によって、公議政体派の業績が見直されました。大正デモクラシー華やかなりしころに、龍馬の船中八策にある「万機宜しく公議に決すべき事」「外国の交際広く公議に採り」とあることが評価されたわけです。

ここでも龍馬は民本主義者たちの偶像として利用されいてることがわかります。
なぜなら龍馬のいう「公議」とは、大名や諸侯によって議論をしていくことを指していたのに対し(龍馬自身に民主主義のような概念はありません)、ここでは都合よく擦り替えられているからです。

なお、この頃、実証史学の場に坂本龍馬が登場し、基礎研究が確立されました。
大正時代というのは、史料が一通り整理され、幕末史研究が飛躍的に進歩した時期です。
土佐派の活動をまとめた『維新土佐勤王史』が刊行されたのは大正元年のことです。
また、貴族院議員千頭清臣による『阪本龍馬』が刊行されたのも大正3年です。もっともこちらはゴーストライターによるものであることが明らかとなっていますが。

そして『竜馬がゆく』へ

昭和前期には、皇国史観により幕末モノの映画が多数作られ、その中では龍馬も勤王の志士として大活躍するものが多くあります。

そして、戦後の昭和37年(1962年)、産経新聞に連載されたのが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』でした。

竜馬がゆく

高度成長期の日本において新しいヒーロー像が求められていたこととうまく適合し、この小説は大ベストセラーとなり、今の龍馬像をほぼ完成させたといってよいでしょう。

むしろ戦後の日本においては、すべてが反戦平和・民主主義の風潮でしたので、ここでの「司馬竜馬」もその影響を強く受けたキャラクターとして登場します。
あくまで武力討幕路線を推し進めようとする薩長に対し、「竜馬」は大政奉還による平和革命主義を志向します。

実際の龍馬はあくまで武力討幕を基本路線とし、同時に後藤象二郎には大政奉還を具申するなどの、老獪な策略をめぐらしていたものと思われます。
この龍馬の手腕を、平和革命を目指すといったような、現代人の枠組みで捕らえると持ち上げているようで、実は矮小化してしまい、真実を見誤る恐れがあります。
このように時代のニーズに応じて、龍馬は何度もその伝説を創ってきました。

次回以降は、巷間伝えられる龍馬の伝説の何が真実で何が虚構なのか、考察していきたいと思います。

なお、坂本龍馬について書かれた資料はそれこそ山のようにたくさんありますが、実際に重要史料として取り扱われるのは以下の6冊ですので、これらの史料を中心にして考察を進めて行きたいと思います。

  • 『汗血千里駒』坂崎紫蘭著 明治18年(1885年) 春陽堂
  • 『阪本龍馬』平松宣枝著 明治29年(1896年) 民友社
  • 『維新土佐勤王史』瑞山会編 大正元年(1912年) 冨山房
  • 『阪本龍馬』千頭清臣著 大正3年(1914年) 博文社
  • 『雋傑坂本龍馬』坂本中岡銅像建設会編 昭和元年(1916年)坂本中岡銅像建設会
  • 『坂本龍馬海援隊始末』平尾道雄著 昭和4年(1929年) 万里閣書房

 

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2 Responses

  1. 2015年4月21日

    […] 坂本龍馬の真実 […]

  2. 2015年6月1日

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