グループBという熱狂の時代

 

WRCにおける狂気の時代

WRC。
世界ラリー選手権。
F1と並ぶモータースポーツの頂点として、大変人気を博しているレースです。

90年代後半からは三菱のランサー・エボリューションとスバルのインプレッサWRXがしのぎを削り、その後はセバスチャン・ローブによる黄金時代を経て、現在はフォルクスワーゲンが3年連続のチャンピオンとして君臨しています。

そのWRCにおいて、狂気に満ちた時代があったことをご存知でしょうか。
それが、今日ご紹介する「グループBの時代」です。

アウディによる革命

始まりはドイツのメーカーによる革命でした。
1981年に、アウディが、四輪駆動をラリーの世界に持ち込みんだのです。
それまでのラリーカーは、エンジンをフロントかミドに置いて後輪を駆動するのが当然視されていました。
そして、四輪駆動といえば、軍用トラックやジープなどの特殊車両に用いるというのが当時の一般的な理解でした。
四輪駆動車をラリーなどの競技に使うというのは、今でこそ当たり前となっていますが、当時は誰も思いもよらない事だったのです。

「クワトロ」と名付けられたそのアウディの四輪駆動ラリーカーは、5気筒ターボエンジンの320馬力というパワーを、タイヤ4本で受け止めたのです。
それは圧倒的な戦闘力を有する、革新的なハイテクマシンでした。

アウディ・クワトロ2
(1983年のA2。出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AD)

第2戦のスウェディッシュラリーではハンヌ・ミッコラが独走で優勝。
サンレモラリーではミシェル・ムートンに女性初のWRC優勝をもたらしました。
フロントヘビーで極端なアンダーステアにドライバーは苦しめられましたが、そんなことは圧倒的な駆動力の前には些細な事に過ぎませんでした。
さらに、アンダーステアを克服する左足ブレーキのテクニックが考案されると、アウディ・クワトロの無敵の強さの前にはもはや敵はいませんでした。
従来の後輪駆動+自然吸気のラリーカーに比べて、アウディ・クワトロは圧倒的に雪道やグラベルで強く、それまでのラリーカーを一気に時代遅れのものとしてしまったのです。

 

グループBの誕生

こうした中、1982年にはWRCの車両規定が変更されます。
レギュレーションの簡略化が行われ、グループ1-8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうちラリーの世界選手権はそれまでのトップカテゴリーであったグループ4からグループBへと変更されることになりました。
新たなトップカテゴリーのグループBでは、連続する12カ月に200台を製造すればホモロゲーションが取得できるようになりました。
さらに、わずか20台製造するだけでエボリューションモデルのホモロゲ―ションも認められることになり、WRCは実質的に何でもありのプロトタイプスポーツカーで争われるようになったのです。

メーカー各社はその後もますます先鋭化した高性能車両を競って生み出していくことになります。

ランチア037ラリーの登場

イタリアが誇るラリーの名門、ランチアは、アウディ・クワトロに対抗してランチア・ラリー、コードネーム037を投入しました。

037ラリー
(出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Lancia_Rally_037)

1982年にデビューしたランチア・ラリー037は、325ps、リア駆動の2WDでしたが、デビューのモンテカルロでヴァルター・ロールとマルク・アレンがワン・ツー・フィニッシュ。
コルシカ、アクロポリス、ニュージーランド、サンレモとアレンとロールが立て続けに優勝を飾ります。
結局ランチアは、この年10戦5勝で、4勝のアウディを上回り、グループB初のタイトルを獲得するのです。

 

 

もっとも、互角に見えたランチアとアウディでしたが、実際には4WDの優位性が浮き彫りになり、今後のラリーは4WDでなければ勝てないということは明らかでした。
その証拠にランチアのエースであった、ヴァルター・ロールは翌シーズン、なんとライバルのアウディに移籍してしまうのです。

怪物マシン=プジョー・205ターボ16の登場

そして幕を開けた1984年。
この年から本格的にグループBの怪物的進化が始まります。

1983年はアウディ・クワトロと互角の戦いを演じたランチア・ラリー037でしたが、熟成の進んだアウディの前には勝負にならず、序盤はアウディの独擅場となりました。
この年、ランチア・ラリー037はわずか1勝にとどまったのに対し、アウディは順調に勝ち星を積み上げ、シーズン前半でタイトルを決めてしまいます。
ツール・ド・コルスには進化型のショートホイールベースを有するアウディ・スポーツ・クワトロを投入し、もはやアウディにはラリーの世界では敵無しと思われました。

しかし、ツール・ド・コルスには、時代を変えてしまう新たなエントラントが名を連ねていたのです。

それはフランスのメーカーであるプジョーでした。
当時プジョーは小型サルーン205の市販を開始しており、この205の販売に力を入れ、モータースポーツ、特にWRCを活用することを思いついたわけです。

そして、一台の怪物マシンが産声を上げました。
外見こそは市販車の205と同じかたちをしていましたが、リアミッドシップに横置きされたターボエンジンは456psを叩き出し、車体はセミパイプフレームとケブラー樹脂で構成され、駆動は4WDと、全く別物の怪物車両だったのです。
それがプジョー・205ターボ16でした。

プジョー205
(出典:http://blogs.yahoo.co.jp/mijoushort/46749409.html)

初参戦となったツール・ド・コルスはリタイヤに終わってしまいましたが、リタイアまでトップを快走し、周囲を大いに驚かせました。
ドライバーに1981年の世界チャンピオンであるアリ・バタネンを起用し、バタネンは1000湖ラリー、サンレモラリー、RACラリーとシーズン後半を3連勝し、翌年からの本格参加に向けてのテストであったにもかかわらず、それまで圧倒的な強さを誇っていたアウディを全く寄せ付けなかったのです。

小型でパワフル、かつ、ホイールベースが長くコントロールしやすいという特色を持ち、それでいて960kgという軽量。
異様なまでに高い戦闘力を見せつけたのです。

 

怪物的進化を遂げていくグループB

1985年は、序盤からプジョー・205ターボ16が圧倒的な強さを見せました。
プジョー・205ターボ16は7勝を挙げて早々にチャンピオンシップを獲得し、ドライバーズタイトルも日産から移籍してきたティモ・サロネンが5勝を挙げて獲得し、WRCを完全制覇しました。
シーズン後半からはより強力なE2を投入し、盤石の体制を築きました。

プジョー205
(出典:http://open.mixi.jp/user/29141368/diary/1890922529)

一方で、ライバルのアウディもボディーを小さくしたスポーツ・クワトロ、そしてエンジンを強化したスポーツ・クワトロS1で対抗します。
マシンはコンパクトになり、全幅は拡大され、まるでチョロQのようなクルマができあがります。

アウディ・クワトロ
(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AD)

 

この年からワークスカーのエンジン出力が、従来の300馬力前後から450から600馬力前後までにパワーアップし、鋼管スペースフレームに市販車に似せたデザインのFRP若しくはCFRP・ケブラー製のカウルを被せ、空力特性を上げるためのさまざまなエアロパーツが付加されるようになり、まさに戦闘機という形容がふさわしいいでたちとなっていきます。

1トンそこそこの車重に対し、450から600馬力のパワーを持ったモンスターマシンが、強力なダウンフォースを生む空力性能を生かしてグラベルやターマックを疾走する様は観客を熱狂の渦に巻き込みました。
その加速力は0-100km/h加速を1.7秒-2.5秒でこなすほどであったとされており、これは1,000馬力とも言われた当時のF1カーをも凌いだと言われています。
しかし、現代のクルマと違って、電子制御などは入っていません。
速さのみを追求していったグループBカーは制御不能の領域に陥り、数々の悲劇を生み出すこととなっていきます。

第5戦ツール・ド・コルスではアッテリオ・ベッデガの運転するランチア・ラリー037が立ち木に激突し、ベッテガが死亡します。第8戦のアルゼンチンラリーではバタネンが直線でコントロールを失い大クラッシュ、再起不能ともいわれた瀕死の重傷を負ってしまいます。
相次ぐ重大事故にもかかわらず、グループBカーの危険性を指摘する声は観客たちの熱狂にかき消され、グループBはさらに先鋭化していきます。

究極の最終進化形態

1985年には、プジョーに続けとばかり、ミッドシップ+4WDレイアウトを備えた新しい挑戦者が続きます。
英国からは、オースティン・ローバーのMGメトロ6R、フォードからはRS200。

そして、究極のグループBカーとして登場したのが、ランチア・デルタS4でした。
ツインチャージドエンジンをリアミッドシップに縦置きした4WD。
プジョーが量販車に似た姿にすることを重要課題としていたのに対し、デルタS4は量販車とは名前以外共通点のない、もはや勝つための装備が満載された異形のマシンでした。

ランチア・デルタS4
(出典:http://racingengineering.tumblr.com/post/25954251697/group-b-lancia-delta-s4-1986-1759cc)

ツインチャージャーで武装したエンジンは強力なトルクを生み出し、カーボンケブラー製の軽量ボディーを強烈に加速させました。
ミドシップ+過給エンジン+四輪駆動という新時代のラリーカーの方程式を、極限まで進めた最終進化形態。
操縦性には難がありましたが、若き天才ヘンリ・トイボネンが絶妙なコントロールでポテンシャルを引き出しました。
デビュー戦でデルタS4は圧倒的なパフォーマンスを見せ、ヘンリ・トイボネン、マルク・アレンのドライブで1-2フィニッシュを飾ります。

悲劇、そして終劇

デルタS4は、グループB時代に生み出された最新技術を結集した究極のモンスターでした。
その過激すぎる性能は、あろうことか、グループBというカテゴリ自体に終止符を打つという皮肉的な最後を迎えるのです。

デルタS4
(出典:https://gazoo.com/car/history/Pages/car_history_056.aspx) 

 

1986年開幕戦のモンテカルロラリーでもランチア・デルタS4を駆ったヘンリ・トイボネンが勝利。
続くスウェディッシュラリーではプジョー・205ターボ16を駆るユハ・カンクネンが制し、前年チャンピオンとしての粘りを見せます。
まさしく、ランチアとプジョーの一騎打ちでした。

そして、運命の第3戦、ポルトガルラリー。
フォード・RS200にてワークス参戦していたヨアキム・サントスが、コース上の観客を避けようとして観客席に時速200キロメートルで突っ込み、死者3名を含む40人以上の死傷者を出す大惨事を引き起こしてしまいます。

相次ぐ事故にもかかわらず、人々はまだ熱狂から醒めようとしません。

さらに第5戦のツール・ド・コルスで決定的な事故が発生します。
初日からトップを独走していたトイボネンが緩い左コーナーにノーブレーキで突っ込みコースオフ、崖から転落した直後に爆発炎上。
トイボネンはコ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡してしまいました。

この大惨事を受けて、FISAは緊急に会議を招集し2日という異例のスピードで声明を発表、以後のグループBのホモロゲーション申請を受け付けないこと、1986年限りでグループBによるWRCは中止し1987年以降は下位カテゴリーであるグループAにて選手権を行うと決定しました。
グループBは、わずか5年でWRCから去っていくことになったのです。

そして時代は日本車が活躍するグループAの時代へと移っていきます。

 


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