前回、ノルマン・コンクエストについて詳しく書きました。
これを読んだ方ならお分かりとは思いますが、ノルマン・コンクエストとは、フランスの一地方の豪族にすぎないノルマンディー公ギヨームが、イングランドに乗り込み王をぶっ殺して王座についた、という事件です。
彼は出自はノルマン人ですが、フランスに生まれ、フランスで暮らし、フランス語を話す、フランス人でした。
イギリスでは、「中世のイングランドは、ドーバー海峡を隔てて、フランスの地にも植民地を持っていた」という言い方をしたりもしますが、何の事はない、フランスの一部族にイングランドを乗っ取られていたわけです。
こういうことをいうと、イギリス人は露骨に嫌な顔をしますが。
そして、大陸からこの島国に封建制度というものが持ち込まれました。
ギヨームは、王座を奪い取った後も、依然としてノルマンディー公としてフランスに住み続けました。
彼にとっては、あくまでノルマンディー本領のほうが重要であって、イングランドなどはたまさかに得た植民地に過ぎなかったのです。
そのことを示すように、ギヨームの遺言では、長男であるロベールが本拠ノルマンディ領を、三男ギヨームがイングランド王国を相続するという手はずになっていました。
このギヨームこそが、ノルマン朝の2代目王のウィリアム2世です。
赤ら顔であったため、ウィリアム・ルーファス(赤顔王)と呼ばれています。
この後、ウィリアム・ルーファスは、1100年、ニューフォレストで狩猟中に部下の放った矢が当たり、あっけなく死去しています。
独身で子が無かったため、王位は四男のアンリが継承しています。
これが3代目ノルマン朝イングランド王のヘンリー1世です。
ウィリアム・ルーファスが事故死した現場には、ヘンリーもいたため、未だに事故だったのか暗殺だったのかは謎のままです。
ヘンリー1世は、兄のロベールも討って、ノルマンディー領も手に入れています。
彼は色好みの王として知られ、記録されているだけでも子供は9男11女と言われています。
スタミナの源は八目鰻だったそうで、鰻の食い過ぎで死んだと言われています。ちょっとおもろい。
次回は、ノルマン朝からプランタジネット朝への移り変わりについてお話します。
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