幻の初代女王と無政府時代 英国史シリーズ(4)

 

さぁ、おなじみの(笑)英国史シリーズです。
今日は第4弾。
もともと一気にプランタジネット朝まで行く予定でしたが、その前にあった、幻の初代女王と一代限りの王朝であるブロワ朝が対立する「無政府時代」と呼ばれる混沌とした時代をご紹介したいと思います。

前回までのおさらいです。

イギリス王室はいつ始まったか 英国史シリーズ(1)
ノルマン人が攻めてきたぞ! 英国史シリーズ(2)
ノルマン・コンクエストのその後 英国史シリーズ(3

というわけで、前回お伝えしたとおり、後にヤツメウナギの食い過ぎで死ぬことになるヘンリー1世ですが、精力絶倫で9男11女をもうけたにもかかわらず、長男ウィリアムと次男リチャードの2人を海難事故で失ってしまいます。さらに長女のマティルダは、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世に嫁いでおり、気づけば大変困ったことに王位継承者がいないという状態に困っていました。

ヘンリー1世

ところが運良く(?)皇帝ハインリッヒ5世が死んで、皇后マティルダは未亡人となってイングランドに舞い戻ってきます。
フランスでは、サリカ法によって女性の王位継承が認められていませんが、イングランドでは「そんなん無視無視!女の子でなんか問題あるの?」という感じなので、ヘンリーは皇后マティルダを王位継承者に指名します。
イギリス正史では、その在任期間があまりに短気であったため女王として記録されていませんが、実質的な初代女王ですね。

マティルダ

とはいっても女の子だけでは不安なので、ヘンリーは、アンジュー伯ジョフロワという男を婿に迎えます。再婚です。
ジョフロワは15歳、マティルダは23歳という、いまどき流行りの女性が年上のカップルでした。

1135年、ヘンリーは、幸せそうな娘夫婦を見守りながらも、フランスの地にてヤツメウナギの食い過ぎで死にます。

さて、問題はその後です。
ヘンリーという絶大な力を持つ王が後見人として君臨していたからこそ、貴族たちは小娘であるマティルダと娘婿ジョフロワを君主として従っていたのですが、その後見人たる王なき後は、貴族たちがざわつきはじめます。
イングランドの議会では、マティルダを王位継承者とする旨、3度にわたって決議したにも関わらず、スティーブン王の弟であるウィンチェスター司教ヘンリーの活躍もあって、貴族たちは、「小娘のいうことなんか聞いてられっか」ということで、決議は破棄され、ブロワ伯エティエンヌ(スティーブン)を担ぎ上げます。

スティーブンはヘンリーの姉アデラの三男。つまり、ヘンリーから見ると甥っ子。マティルダからみると従兄弟ですね。
彼はこう主張しました。
「俺は、おじさんからイングランド王にしてやるって言われてたんだ、マティルダ? けっ、女じゃねぇか、本当に王にふさわしいのはこの俺だ」
スティーブンこそが、ノルマン朝の血を引く由緒正しい男子で、王様にふさわしいというわけです。

スティーブン王

というわけで、1135年、彼はウェストミンスター・アベイで戴冠し、イングランド王を名乗ります。
これがノルマン朝とプランタジネット朝の狭間に生まれた、ブロワ朝です。

イギリス王室系譜2

(出典:http://www.nntt.jac.go.jp/library/library/course05_07.html

この機に乗じて、スコットランド王デイヴィッド1世、フランス王ルイ6世までもが介入し始め、貴族、司教、ロンドン市民を巻き込んで争いがおき、国内は荒廃しました。
この10年の永きに渡る混乱の時代を「無政府時代(Anarchy)」といいます。
ケン・フォレットによるベストセラー小説、『大聖堂』はこの時代が舞台となっています。

無政府時代2

皇后マティルダが戦いを優勢に進め、スティーブン王を捕縛します。
その後、スティーブン王はいったん解放され、皇后マティルダも1148年にルーアンまでの撤退を余儀なくされるなど、攻防は続きましたが、1153年継承者であったユースタスを失ったスティーブンは、落胆のあまり、マティルダの長男ヘンリーにイングランド王位を継承させるかたちで和解に至ります。
力が抜けたのか、翌1154年、混乱の王であった風雲児スティーブンは死去します。
遺体は、王妃マティルダ(皇后マティルダと同名)、息子ユースタスと一緒に、カンタヴェリーの西方にあるフェヴァーシャム・アベイに埋葬されました。

これまでも説明してきたとおり、イギリスだとかフランスだとかという区分はいまだ不明瞭な時代の話です。
イングランド王であるノルマン王家とはいえ、彼らはそれと同時にフランス王の臣下である有力諸侯の一人に過ぎませんでした。
「イングランド王」なる名称は、あくまで「王」というタイトル付の「割のいい植民地」だったのです。
「無政府時代」の本質とは、征服王ウィリアムの孫達による、遺産相続の争いであって、彼らもまた「フランス人」でした。

いずれにせよ、無政府時代の終わりとともに、ウィリアム征服王以来88年に渡るノルマン朝は終わりを告げ、ヘンリー2世によってプランタジネット朝の時代がやってきます。
また次回に。

 


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