今日2014年10月25日は、最初の航空機を用いた自爆攻撃を目的として結成された特別攻撃隊の最初の攻撃からちょうど70年目の日です。
それまでにも、航空機により敵の艦船などに体当たり攻撃を行った例はありましたが、あくまで体当たりによる自爆攻撃を目的として隊が結成され、それが命令として下されたのは、この『神風特別攻撃隊』が最初です。
特攻がどのようにして生まれたのか?
このことについて、最初の特攻隊隊長関行男大尉と、「特攻の父」と呼ばれた作戦発案者の大西瀧治郎中将という2人の軍人にスポットライトを当てながら、語ってみたいと思います。
特別攻撃隊の誕生
特攻の父
大西瀧治郎中将
昭和19年10月19日。フィリピンのマバラカット飛行場に一人の司令官が降り立ちました。
その男こそ、大西瀧治郎海軍中将(当時53歳)。のちに「特攻の父」と呼ばれる男です。
当時帝国海軍は、「捷一号作戦」を計画しており、その中で栗田艦隊がレイテ湾に進入し、敵の地上部隊を叩く手はずとなっていました。ただ、米海軍の航空戦力は強大であり、たった一隻でも、ほんのすこしの時間でも、敵機動部隊の足を止める必要があったのでした。その中で、大西自身が「統率の外道」としながらも提案した作戦が、味方機に爆弾を抱かせて相手艦船に体当たりをすること、すなわち「特別攻撃」でした。
大西自身は、すでにこの戦争に勝ち目がないと悟っており、講和の条件を少しでも有利に運ぶため、一矢報いる必要があると考えていたのでした。
特別攻撃隊長
関行男大尉
大西からこの提案を受けた司令部副長の玉井浅一中佐は、翌20日の夜、海軍二〇一航空隊分隊長関行男大尉を呼び出し、特別攻撃作戦を伝え、その攻撃隊の隊長として関大尉を指名したい旨伝えました。
実は特攻の志願者は、すでに予備士官や予科練、飛練の中から多く出ていました。しかし、海軍としては、あくまで最初の特攻は幹部候補生である海軍兵学校出身者でなければならないと考えていました。「海軍随一の優等生」と呼ばれるほど優秀な艦上攻撃機の搭乗員であり、対艦攻撃の第一人者である関大尉は、体当たり攻撃などしなくても、爆弾を的空母に命中させ、何隻でも相手の空母を撃沈させることができたのです。そのように優秀な搭乗員を体当たり攻撃で失うことは、人命という観点を抜きにしても、まったく算盤に合わない話だったのです。
関大尉は、海軍報道班員の小野田政による取材を受けています。
報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある!
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう!?
といったそうです。50番とは500キロ爆弾を指し、「KA」とは海軍の隠語で、KAKA=妻を指しました。
当時23歳だった関大尉は、5月に結婚したばかりでした。
上の写真は、彼が妻に渡すよう小野田に撮ってもらったものです。
もっとも、皮肉にもこの写真には緊迫感があるという理由で、後に敷島隊の戦果を報じる新聞の一面を飾ることになってしまいました。
妻を思う遺影が戦争のプロパガンダに用いられてしまったわけです。
(次頁に続く)
1 Response
[…] 前回のエントリでも書いたように特攻作戦が開始されたのはレイテ沖海戦のときです。 その後、フィリピンから台湾、硫黄島あたりまでだと海軍315機、陸軍253機の計568機が出撃し、内、 […]