神風特攻70年〜その真実〜

 

神風特別攻撃隊

最初の出撃

特別攻撃隊の名称は、「神風特別攻撃隊」と決定しました。
いまでは「かみかぜ」と一般に呼称されていますが、あくまで「しんぷう」と当時は呼んでいたそうです。
各編隊名は本居宣長の歌である「敷島の 大和ごころを人問わば 朝日に匂う 山桜かな」から取り、

  • 敷島隊
  • 大和隊
  • 朝日隊
  • 山桜隊

と決定されました。関大尉は一番隊である敷島隊の隊長に任命されました。

敷島隊の隊員は以下のとおりです。

  • 一番機 関行男  海軍大尉   23歳
  • 二番機 中野磐雄 一等飛行兵曹 19歳
  • 三番機 谷暢夫  一等飛行兵曹 20歳
  • 四番機 永峰肇  飛行兵長   19歳
  • 五番機 大黒敏男 上等飛行兵  20歳

昭和19年10月21日早朝。
敷島隊は、特別攻撃を目的として、出撃しました。

出撃に際し、大西中将は、隊員に以下のとおり訓示を伝えました。

「皆はすでに神である。神であるから欲望はないであろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当りが無駄ではなかったかどうか、それを知りたいことであろう。しかし皆は永い眠りにつくのであるから、残念ながら知ることもできないし、知らせることもできない。だが、自分はこれを見とどけて、必ず上聞に達するようにするから、安心していってくれ」(1944/10/20 大西瀧次郎、出撃前訓示)

決別

これは大西と敷島・大和隊員との訣別の水盃を酌み交わしている写真です。
左から関、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛(大和隊)、宮川正(大和隊→菊水隊)です。

しかし、敷島隊の出撃は、悪天候が災いし、敵艦隊を発見することができず、帰投しました。関大尉は10月22日早朝、敷島隊と朝日隊を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪しました。敷島隊は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされており、関は帰投のたびに玉井に謝罪し、出撃前夜まで寝ることすらできなかった状況だったそうです。

 

特攻の成功ー悲劇の始まり

10月25日7時25分、関大尉率いる敷島隊10機(うち爆装は6機、直掩機4機)は、マバラカット西飛行場を発進します。このとき直掩を勤め、戦果報告を行ったのが「ラバウルの魔王」と呼ばれた名搭乗員西澤廣義飛曹長です。彼は特攻の成果を見届けた後敵機グラマンを2機撃墜して帰投していますが、翌26日、ダグラス輸送機に乗っているところをグラマンF6Fに撃墜され戦死しています。

話を敷島隊に戻します。マバラカットを発した敷島隊は、途中で爆装機1機がエンジン不調で引き返します。
10時40分。護衛空母5隻を基幹とする第77.4.3任務群(クリフトン・スプレイグ少将)を発見します。

その後一気に3000メートルまで上昇し、翼をダウンさせ、直掩機に別れを告げ、各機が目標を定め突入し、10時49分、特別攻撃を完遂しました。

 

昇降機に関隊長機の突撃を受けた護衛空母「セントロー」は、燃料や弾薬の誘爆を引き起こし、大爆発の末に沈んでいきました。

特攻セントロー

当時の新聞はその成果を大々的に報じています。

特攻新聞

関大尉たち5人の搭乗員は「五軍神」として靖国神社に祀られました。

大西中将はあくまで、レイテ戦のみの限定的な作戦と考えていたのですが、偶然が生んだ戦果によって、その有用性を認識した上層部の意思の下、作戦として継続していくことになってしまったのでした。関大尉の文字通り命をかけた特攻は、皮肉にもさらなる悲劇を生むことになっていったわけです。

遺書

関行男大尉の遺書です。

父上様、母上様  西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に

満里子殿  何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ
御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様  色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ

教へ子へ  教へ子よ散れ山桜此の如くに

 

特攻の父・大西中将は戦後に自決しています。以下はその遺書です。

特攻隊の英霊に日す
善く戦ひたり
深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり然れ
共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり
吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
いましめ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ
聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誠ともならば辛なり
隠忍するとも日本人たるの衿持を失ふ勿れ
諸子は国の宝なり
平時に処し猶ほ克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽せよ

海軍中将大西瀧治郎

 

このエントリでは、読んだ人が何を感じるかはその人次第であると考え、これらの歴史的事実を記載するのみとし、特に何かを付け加えることはやめました。

 


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1 Response

  1. 2014年10月26日

    […] 前回のエントリでも書いたように特攻作戦が開始されたのはレイテ沖海戦のときです。 その後、フィリピンから台湾、硫黄島あたりまでだと海軍315機、陸軍253機の計568機が出撃し、内、 […]

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