19世紀の列強体制
前回のエントリで書いたように、1914年当時の欧州は、ナポレオン大戦争以来大きな戦争がなく、平和が続いている時代でした。
ウィーン体制のまま、イギリス、フランス、ロシア、オーストリア、ドイツ、イタリアの欧州列強が支配していたのです。
19世紀も後半になると、鉄血宰相ビスマルクがフランスを孤立・包囲する体制を作り上げ、普墺戦争・普仏戦争に勝利してドイツを統一し、イギリスの覇権に挑戦する新しいパワーとして確立させようとしていました。
同時にビスマルクはロシアのバルカン半島への進出を食い止め、フランスを含む列強各国のアフリカ・アジアへの進出を支援していました。
ウィーン条約後の列強体制とは、列強諸国間が欧州で競争していたわけではなく、あくまで非ヨーロッパ地域において競合している状況だったので、欧州中心部には平和が続いていたのです。
この競争における最大の犠牲になっていたのは当時の中国を含むアジアとアフリカですが、日本はこの草刈り場になるのを防ぐべく、近代化を選択し、自らが列強になる道を進んでいったわけです。
三国同盟と三国協商
20世紀に入ると、列強は二極化します。
ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商です。
といっても、2つの陣営が争いあうかたちではなく、あくまで列強体制の維持を目的とした連携に過ぎませんでした。
しかし、ビスマルクが引退した後、ドイツ帝国は変貌を遂げます。
野心を秘めたウィルヘルム2世は、それまでの列強体制維持のための政策から、一挙に帝国主義的海外進出路線に舵を切ります。
中国膠州湾に租借地を獲得し、南太平洋にも進出し、加えて、ベルリン―ビザンティウム―バグダッドを結ぶいわゆる3B 政策により、英仏露に脅威を与える結果を招きます。
さらには、1880年台までは粗悪品の代名詞だった「メイド・イン・ジャーマニー」が、その工業化の発展により世界最高の製品を作り出すようになります。
まさに「ドイッチェラント・ウーバー・アレス」=「ドイツは世界を支配する、世界に冠たるドイツ帝国」という気概が高まってきたのです。
こうした新興国ドイツの台頭が次第に列強間のバランス、特に大英帝国の覇権に対し、次第に不安定要素を持ち込み始めていました。
バルカン戦争
―「ヨーロッパの火薬庫」から、「ヨーロッパの導火線」へ―
そうした列強当事者ではなく、少し離れたところに非常に不安定な地域がありました。
バルカン半島です。
19世紀以降、オスマン帝国下のバルカン半島諸民族は独立を掲げて帝国と対立しており、こうしたことからバルカン半島は非常に抗争の多い不安定な地域だったので、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。
20世紀に入ると、そこへ欧州列強が介入してきます。
1908年にはオーストリアがセルビア・モンテネグロ地域を併合しますが、大多数を占めるセルビア人居住者はこれに反発します。
これに対し、ロシアは同じスラブ民族ということで「パン・スラブ主義」を掲げ、セルビア人を後押しします。
さらには青年トルコ党による革命、ブルガリアの独立、イタリアによるモロッコの簒奪など、オスマン帝国の弱体化が急速に進みます。
その結果、ロシアの支援の下、ブルガリア・セルビアなどバルカン4国はバルカン同盟を結成し、1912年にオスマン帝国に宣戦布告します。
これが「バルカン戦争」です。
オスマン帝国はバルカン半島から駆逐されてしまい、最終的にはイギリスなどの介入により1913年のロンドン会議で列強主導による講和でいったん決着します。
しかし、苦難を共にすることはできても、富貴を共には楽しむことはできません。
今度は勝利した側のバルカン同盟内で内ゲバが始まるのです。
ブルガリアと他のバルカン同盟国が争い、第二次バルカン戦争が始まります。
列強の介入は深まり、ついにバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」から「ヨーロッパの導火線」となってしまいます。
結果としてブルガリアは敗北し、オーストリアはすぐ隣にセルビアという大きな脅威を抱え込むことになってしまいました。
オーストリアは国内にも200万人を超えるセルビア人を抱えており、高まるナショナリズムを抑えることが非常に危うい状況が作られていったのです。
こうした状況の中、サライェヴォでの銃声が鳴り響き、すべてが瞬く間に壊れていったのでした。
引き続き、第一次世界大戦を取り上げたいと思います。