アウディから始まった怪物4WDの系譜
以前にもお伝えしたように、四輪駆動という概念をラリーの世界に最初に持ち込んだのは、アウディでした。
それまでトラックやジープといった悪路を走破するための機能であった、4WDをラリーカーに搭載し、圧倒的なパワーを路面に伝えるために用いたのです。今ではラリーカーと言えば4WDが当たり前ですが、当時はまさにコペルニクス的転回ともいえる画期的な試みでした。
(1983年のA2。出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AD)
これをやってのけたのがアウディ社の実験部長で、後に社長となる、フェルディナント・ピエヒ。彼は、ポルシェ社の創業者であるフェルディナント・ポルシェの孫にあたる人物でした。ピエヒは1960年代にポルシェ社においてレースの最前線で指揮をとっていましたが、1970年代に入るとアウディに移籍します。元々高い技術力で知られていたアウディにピエヒが来たことで、アウディの技術力はさらに高まりました。
それまでの四輪駆動車は、4WDと2WDとを手動で切り替えるパートタイム方式が主流でしたが、1980年にジュネーブ・モーターショーでデビューしたアウディ・クワトロは、縦置きエンジンにメカニカルセンターデフを持つ完全なフルタイム4WDでああったため、世界に衝撃を与えました。この技術は、オーストリアにあるシュタイヤー・プフ社との共同研究で開発されたものです。同社は軍用自動車メーカーでもあり、4WDにかけては当時、世界屈指の技術力を誇っていました。
こうしてピエヒによって生み出された、アウディ・クワトロは、5気筒ターボエンジンの320馬力というパワーを、四輪駆動で確実に路面に伝えるという、圧倒的な戦闘力を有する、革新的なハイテクマシンでした。
ここからグループBが、ハイパワー4WD全盛の熱狂時代に突入していった経緯については、下記の記事をご覧ください。
世界最高のスポーツカーメーカーによる最強の4WDマシン
そしてこのアウディ・クワトロによる4WDの衝撃に影響を受け、動き出したメーカーがありました。
言わずと知れた、世界最高のスポーツカーメーカー、ポルシェ社です。
実はポルシェは1970年代後半から4WDシステムの開発を進めていました。
1981年にスタディモデル4WDカブリオレを製作、そして1983年には、グループB規定に対応する4WDモデルのプロトタイプとして、グルッペBをフランクフルトモーターショーで発表しています。
そしてこのプロトタイプは、テストを重ねた結果、ポルシェ959として生産されました。
80年代最高のスポーツカーの一つです。
911風のボディは、一体化されたリアフェンダー、下面全面のカバーリング、NACAダクトの採用などにより、Cd値は0.31と空気抵抗がかなりちいさくなっています。ボディシェルはケブラーやガラス繊維により強化されたエポキシ樹脂を素材を採用し、オートクレーブ加工したハイブリッド構造となっています。フロントフードとドアパネルには熱硬化性アルミニウム合金、バンパーは復元性に優れたガラス繊維強化ポリウレタンを使用するなど、部位ごとに材質が使い分けられています。つまり、金がものすごくかかっています。
このボディに、これまた当時グループCで最強の名をほしいままにしていた、962Cのシリンダーヘッドのみ水冷の半空冷式水平対向6気筒935/82型エンジンの改良版を搭載しています。最高出力は450馬力、トルクは51.0kgm。これに、KKK製ターボチャージャーをシーケンシャル制御のツインターボでかけており、低中回転域の実用的なトルク、レスポンスと高回転域のハイパワーを両立することに成功しています。こうしたシーケンシャルツインターボは、その後FD3Sなどでも採用されていますね。
そして、このスーパーパワーをウルトラローを含む6段マニュアル・ギアボックスを介して効率的に路面に伝えるため、959には、「可変トルクスプリット式」という、画期的な四輪駆動システムが採用されていました。コンピュータ制御により加減速・コーナリングなどの車体状況に応じ前後の駆動力配分を自動制御し、ステアリングコラムに設けられたレバースイッチにより、天候状態や路面状況により最適なモードを選択することができるという、これまでの常識を打ち破るシロモノだったのです。
(出典:https://jalopnik.com/5965531/your-ridiculously-awesome-porsche-959-wallpaper-is-here)
(出典:http://www.ewallpapers.eu/63242-porsche-959.html)
959は、グループBのホモロゲート獲得用に86年から市販されます。当初200台のみ生産される予定だったのが、世界中から注文が殺到したため、最終的に326台生産されています。同時期にフェラーリでもグループB用につくられたF40とともに、日本のバブル期を直撃した第2次スーパーカーブームを彩る名車となっています。漫画「こち亀」では、中川がF40に、麗子が959に乗っていました。
(出典:https://rrevit.files.wordpress.com/2013/09/ferrari-f40-10.jpg)
計画時に予定していた競技は消えてしまいましたが、86年のパリ・ダカール・ラリーではみごとに優勝を果たします。また、同年のル・マンでは、959のサーキット仕様となる961が、24時間走り抜き総合7位でクラス優勝しています。
そして生まれた極東のハイパー4WDマシン
こうした一連のスーパー4WDのうねりは、遠く海を隔てた極東の島国にもやってきます。
1989年。日本はバブルの真っ盛り。
日産に伝説のRを冠したスカイラインがもどってきます。
(出典:http://www.wallpaperup.com/855913/1989-94_Nissan_Skyline_GT-R_BNR32_gtr.html)
そのクルマは、BNR32スカイラインGT-R。
伝統の直列6気筒(RB26DETT)は2.6Lのキャパシティに2基のターボが装着され、自主規制時代の最強馬力280馬力。
しかし、RB26DETTはその強靭さゆえに、チューンすれば400、500馬力はあたりまえ、中には1000馬力級のカリカリチューンモンスターマシンまで登場する始末でした。
(出典:http://www.bestcarzin.com/nissan/nissan-gtr-32/8)
そして何より、新世代技術であるアテーサET-S(電子制御式トルクスプリット4WD)により、これまでにないトラクションを得ることに成功したのです。
このアテーサE-TSは、基本的には後輪を常時駆動(FR駆動)し、前後四輪に設けられてる車輪速センサーと横方向と前後方向の加速度を検知するGセンサーにより、全後輪の回転速度を検出して速度差が生じると前輪への駆動トルクを増加させる形になり、前輪にトルクを0:100 – 50:50の範囲で配分するしくみとなっています。その結果として車の駆動性能と安定性が向上するわけです。
わかりやすくいうと、4WDの安定性とFRの旋回能力を得ようという、良いところ取りの夢のシステムだったのです。
(出典:http://www.bestcarzin.com/nissan/nissan-gtr-32/6)
このアテーサET-Sシステムを開発するために、日産はポルシェ959を購入し、徹底的に分析したと言われています(都市伝説的に)。
思い起こせば、1964年第2回日本グランプリで、式場壮吉の駆るポルシェ906カレラ6と、生沢徹のスカイラインGTが 、伝説の激闘を繰り広げて以来、日産の、いや日本の自動車メーカーの宿敵はポルシェでした。
(出典:https://gazoo.com/car/history/Pages/car_history_072.aspx)
敗戦後の時期から日本は着実に技術の進化を重ね、1989年というときをもって、ようやく本気で世界と戦えるクルマとして、登場したのが、この32GT-Rだったわけです。
日本の技術の高さを見せつけたのは、アテーサET-Sだけではありません。R31で好評価を得た「HICAS」を進化させた4輪マルチリンクサスペンション、その名も「スーパーHICAS」が搭載されています。
これにより、特にステアリングの切り始めに、一瞬後輪を前輪と逆方向に操舵し、車の向きを買えるヨーモーメントを発動させ、次に素早く前輪と同方向に操舵を切り返してヨーモーメントを収斂させ、安定したコーナリングを実現することができます。
当時主戦場としたグループAレースでは、デビューを飾った1990年に6戦全勝し、ライバルであったフォード・シエラを完全に駆逐。星野・鈴木組のインパルGT-Rがいきなり優勝をかっさらいます。
それどころか、あまりの高性能っぷりに翌91年シーズンには、プライベーターまで含めて、グループAが実質、GT-Rのワンメイクレースと化してしまいました。
まさに圧倒鉄器な強さ。レースのためのクルマ、スカGの「R神話」第二章を打ち立てたわけです。
このように、アウディから始まったハイパワー4WDマシンの伝説は、80年代後半を席巻し、この後、WRCやスーパーカーに大きな影響を与えています。「4WDこそが最強」といわれるまでになるその伝説の系譜。
いつも面白い記事で楽しみにしてます
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